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寒天の由来・歴史

寒天の由来・歴史 目次

寒天の由来・歴史1200年の歴史

寒天由来

寒天のご先祖様は「ところてん」と言っても過言ではないと思います。 ところてんは遣唐使の時代、今の中国から製法を学んで作り始めました。 古くは平安時代から人々に食されており、その歴史は1200年とも言われています。

さて、そのところてんから生まれた寒天ですが、ところてんが乾物になったモノを寒天と呼ぶのであれば、 その歴史は京都・伏見が発祥の地であり約400年と言われています。 1658年江戸時代初期、徳川4代目将軍家綱公の時代の冬の日、薩摩藩主の島津候が参勤交代の途中に山城の 国伏見の御駕籠町(現在の京都市伏見区)にある美濃屋太郎左衛門が営む旅館「美濃屋」に宿泊したことから 寒天の歴史は始まります。美濃屋のおもてなしの料理の中にテングサを煮て作ったところてん料理がありました。 その際に残ったところてんの一部を外に捨て置いた所、真冬の寒さで夜のうちに凍結し、日中は解凍され、数日間放置しておくと 乾燥して干物になりました。太郎左衛門はこれを興味本位で水と一緒に煮て放置してみると、ところてんより白く、当時のところてんと 比べて海藻臭がしないところてんでした。これが寒天製造方法の最初の発見で、その後種々の研究の末、寒天の製造方法を発見するに 至ったと伝えられています。

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高槻と寒天

寒天歴史

ところてんから「寒天」が生まれたことによる最大のメリットは日持ちし、持ち運びが便利である事があげられる と思います。寒天は誕生以来、100年程は伏見のみで生産されていたそうです。最初は美濃屋の独占、 後に2軒加わったそうですが独占体制に変わりはなかったようです。商品価値としての価値を得た寒天は その販売綱を京都・大阪へ広げていき、販売店も増加して行きました。国内需要が伸びていった寒天ですがそれに 拍車をかける事態が起こりました。

それは幕府が対明貿易の有力な輸出品のひとつに「寒天」が選ばれた事です。 当時、輸出品の唯一の貿易港だった長崎への中継港の役割を果たしていた大阪港へ寒天を集めるようになります。 こうなると輸送の便利さが重要になってきます。一方で独占体制の伏見寒天は摂津寒天の誕生と発展によりあまり 発展はしませんでした。
国内需要と外国貿易の増加で19世紀から20世紀中頃までの全盛期を迎える摂津の寒天。

その繁栄をもたらすきっかけとなる人が摂津国島上郡清水村城山の宮田半兵衛です。 1781年、宮田半兵衛が50年の頃に伏見の水菓子屋に行き、美濃屋で寒天製造法について 学び、寒天作りの技術を習得。現在の高槻市で製造器具など技術革新により良質の寒天を作るようになりました。 彼はその製法を清水村の嘉平、佐平、茂平、と隣村の文蔵に伝え、高槻を発信基地として数人の仲間に伝えられたと 言われています。
こうして、高槻市で大量生産されるようになった寒天は日本全国、世界へと広がって行きました。

ところてんは中国から学んだモノですが、言い伝えられている通りの話であれば「寒天」は日本で発見された歴史ある発明品です。 "Made in japan"です。 その日本由来のモノが細菌学研究におおいに役立ち、たくさんの命が救われました。その流れを繋いだ高槻市の寒天を当社は誇りに思い、 また後世に高槻市の寒天製造の歴史をつないで行きたいと願っております。

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